せいしろうカンボジア日記

カンボジア留学の記録

まいにち日記 箕輪編集室ミノンペンフェスにての雑感

今日、というより昨晩、幻冬舎の編集者である箕輪 厚介さんとカンボジアを拠点に活動している企業の代表2名との対談がカンボジアのプノンペンにて「ミノンペンフェス」というイベントの一環として開催されました。

 箕輪さんについては、メモ魔を読んだぐらいで名前すら知らなかったのですが、プノンペンのインターンコミュニティで「学生参加無料」という情報が流れていたので、興味本位で行ってみましたので、頭の整理もかねて雑感を書きます。

レポート?

こちらの「みの編」の方の速報レポートにそのまま書いてあります。

minohen.com

質疑応答ではオフレコ案件がいくつかありましたので、書かれていないのだと思います。

感想のようなもの

「日本中の優秀な学生を束ねているとかいないとかいう、有名人が来るらしい」という話を聞いたときにふと思い出したのが、吉田松陰という郷土の偉人の「勉強するなら丸呑みするべからず」といった風合いの言葉でした。

うまく言えばクリティカルシンキングとか東大読書の要旨ですが、私の場合は知らないがゆえに軽んじていたという程度の再発見でした。

そんな風に思いながらも、「自己分析の必要性」と「凄さの根源(?)」について新しく何かを学びました。

自己分析

対話の中で箕輪さんは繰り返し「根っこの部分」「コアの部分」と言っていたことに加えて、自身の分析結果のごく一部を実例として紹介していました。その例は非常に論理的でありながら、しかし奇異なものでした。

本の「はじめに」を書くという話では、書くことがないという発見を通じてドラマチックに生きようと思うこと。また、原体験を整理することを通じてコアを発見することが大切だと強調していました。

実際に、ラストマイルワークスの方との対談では、「何につまずいたの?」「達成感感じたことは何?」といった様な「なぜ・なに」の質問を繰り返し、具体的な言葉を引き出すことで、言語化することを実演していました。

また、素直に分析が有用であると発見しました。

ソルティーロのブランディングに関するアドバイスではソルティーロに所属する日本人選手がイケメンばかりであることに言及し、そこから選手個人のSNSからの逆流(今の主流に対して逆ということ)の実現可能性、効果が高いことを指摘していました。事前にソルティーロをある程度分析したうえでのアイデアではないかと思います。

編集業だったりコンサルティングというようなことは、対象を分析しマネタイズできるところを発見するという事なのかもしれません。

凄さの根源(?)

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箕輪さんは壇上に立って話をしている最中に、がぶがぶ酒を飲んだり、スマホで調べものをしたり(もしかすると完全な別件かもしれません)と破天荒さを感じました。

しかし、話せばのどが渇き、のどが渇けば飲みものを飲む。知らないことがあれば調べる。という普通のことをしているだけで、そこに異常さを感じるのはむしろお客さんの行儀が良いからではないかと思いました。

凄い凄いと崇められているような人がスマホで調べているかもしれないにもかかわらず、お客さんはその様子を眺めていたり、メモを取っていました。

そういう常識的なことに関して、無関心でいられるような人がすごい人なのかもしれません。そして、それを体現できる人は、圧倒的な実力と結果によって支えられているということが、すでに常識になっています。

今後にむけて

超出過ぎた杭はもう誰にも打たれることもなく、多くの人が無駄にしているあらゆるリソースを自由自在に使えるのではないかと思いました。出過ぎた杭になるために今、あるリソースを自由自在に使えるようにならねばと思います。

超出すぎるために必要なのは「糧」ではないかと今は考えています。働かなくても生活が成り立つならば、あらゆる時間を意図するままに活用することが可能になるからです。

それが逆の方向でアントレプレナー的なモノにつながってきて、それが理念第一のようなことになっているのかもしれません。つまり意図する方向に時間を使うことで糧を得るという戦略のために、意図が過剰に重要視されるようになっているのではないかと思います。でも結局、その意図によって当座の回転資金を得るわけです。

理想的に始めれば、うまくいく意図のテンプレ集(技術かもしれません)のようなものにありつける可能性が高いですが、私は羅針盤を回して餓死するようになっています。

自己分析をして、圧倒的に飛び出る勝負ができるようなカーロッシー(クメール語の「食い扶持探しの仕事」)を見つけようと思います。